空色徒然草

by いおいお

それはいじめか

 たまたま、家族の誰かが図書館で借りてきた『聲の形』単行本の第一巻がリビングに置きっぱなしになっていたのでそれを読んで、たまたま、時間つぶしに入った書店で最果タヒの新刊『10代に共感する奴はみんな嘘つき』が出ていたので(発売日の前日だったけれど)それを買って読んで、たまたま、どっちもいじめの話だった。
 まあ、正確にはいじめが主題の物語というわけではない(特に後者)のだけれど、小中高といじめらしいいじめを目撃しなかった自分にとって、こういうリアルないじめの描写は新鮮味があった。
 目撃しなかったというのは、実際にはあったかもしれないけれど気付かなかった、とか、それらしいものはあったけれど「いじめ」とは認定されなかった、というのを含んでいる。「いじめ」という言葉が、あまりにも重苦しい文脈を背負ってしまっているから、あるクラスメートがあるクラスメートに対して行っている「あれ」を「いじめ」と認定するのは簡単ではない。「セクハラ」と似たようなものだ。たとえば「差別用語」なんかは、言われた側が差別だと感じようが感じまいが、言った人に向かって横から「それは差別だ」と批判するシステムがだいぶ整ってきているけれど、「いじめ」や「セクハラ」に関してはまだそこまで発達していない。もちろん、そもそも「差別」というのは「差別すること」であり、「差別用語を言うこと」では必ずしもないと思うのだけれど、そういう「ものさし」(「差別用語を言ったかどうか」とか)がないと人は人を罰せられないから、結局、批判対象は差別そのものではなくなる。「いじめ」や「セクハラ」も、それが「いじめ」や「セクハラ」だと認定することができるのは結局のところ法ではなくて感情とか常識とかそういうものだし、それを根本的に解決するのは「人を傷付けない」「何をされても許す」(まとめて言えば「隣人に愛をもって接する」)というマインドセットでしかないのだ。
「隣人愛」にプラスして「罪」(この世界の創造主・神の性質/意思に背くこと)という概念を持ち出せれば、「いじめ」「セクハラ」どころか不倫も殺人も窃盗も偽証も一挙に罰することができるのだけれど(正確には罰するのは我々ではなく神だけれど)、これを素直に理解してくれるのはキリスト教徒くらいで、そうじゃなければ机上の空論もいいところである。もっとも、この記事自体、全体的に極論的で机上の空論的なのは否定できないけれど。