空色徒然草

by いおいお

書かれて終わり

 過去に書いたことというのは、案外覚えていないものである。「話す=離す」だとか言って愚痴の効用を説いていた心理学者がいたけれど、それと同じで「書い」てしまうことによって自分の中のものを吐き出してしまっているから、その書いたものをもう一度読まないかぎりは容易に再び自分の意識に上ってこないようになっているのかもしれない。
 この前のブログでこういうこと書いてたよね、とある人に言われて、(え、そんなこと書いたっけ……?)と素でうろたえた私である。もちろん、その人の言う「こういうこと」が、私がその記事で言いたかったこととずれていたという可能性もあるのだけれど、それにしても、つい一週間ほど前に書いたことも覚えていないものなのだなぁ、と驚いてしまった。
 読むことによって思考は始まり、書くことによってその思考は終わる。誰かが書いたものを読むと、それに対する同意なり反論なりが自分の頭の中に湧き起こり、それに似た事象を思い出してその記事の正当性を裏付けたり、必死で反証を探したりする(思考の開始)。その思考は、自分の興味の強さなどにもよるけれど、誰かに話したりブログに書いたりしない限りは、日常生活の中でちょくちょく思い出して、それに似た事象を思い出してその意見の正当性を裏付けたり、必死で反証を探したりを続ける(思考の展開)。しかし一旦誰かに話したり、文字にして世間に公開したりすると、頭の中にふわふわと浮遊していた思考の雲が凝縮されて固形になり、地面に落ちて動かなくなってしまう(思考の終了)。その思考をもう一度開始しようと思うと、地に落ちた元思考を拾い上げて(自分で書いたものを読んで)新しい思考の雲を生成しなければならないのだ。
 そんなことを考えながら日頃、電車に乗って移動したりしているのだけれど、こうやって文字にして公開してしまえばもうこの問題について考えることもなくなるのかもしれない。きっと一週間後にはまた全然違うテーマで机上の空論を弄んでいることだろう。
 そういえば「話す=離す」に関連して「書く=欠く」という説も聞いたことがある。(こちらは心理学者ではなくある書家が言っていたことである。)こういう言葉の問題を取り上げて弄ぶのも面白いかもしれない。丁重に扱うということは基本的にしない。

 

調べる技術・書く技術 (講談社現代新書 1940)

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