空色徒然草

by いおいお

四月の先端で

 四月だから、川上未映子の詩を読んだ。
「四月ってさ、詩が語られるべき月っていう感じがするんですよね」と言っていたのは川上自身である、文句はあるまい。
 川上未映子を読んだのはこれが初めてであった。川上未映子の名前は前から知っていたが、帯とか裏表紙の推薦の言葉とかを読むにつけて、まだこれは自分には早い、十年後くらいに読んだほうがいいだろうとずっと思っていて、でもこの前ふと手に取った『美術手帖』で藤田貴大という人と川上の対談を読んで、少し気になって、少しフライングだけど読んでしまおうかな、ちょうど四月だし、と思って、買って読んで、
 やっぱりいまの僕にはちと早すぎた、また十年後くらいに読もう、というのが結論であった。手法的には、刺激的なところもあって、こんなにも指示語や人称代名詞をマシンガンのようにぶちまけておいて破綻させないパワーというのは凄いものだし、柔らかいクリームのような生地にガラスの破片を突き刺すかのように情緒と理性をごちゃまぜにしてくるあたり、眠れぬ夜に枕元にあったカントの小編をぱらぱらと眺めていたあの時の味わいを思い出したし、それと指示語の多さも相俟って、詩と哲学とは紙一重であるなと再確認させられたし、だけどそれらの言葉によって語られようとしている川上未映子という女そのものを理解するのにはあまりにも骨が折れて、もっと軽い話題を振ってくれればいいのに、と、ちょっと疲れてしまった。
 たぶん向こうは女で、こっちは男(それも未婚の)だからどうしたってわかりっこない世界なのかもしれないけれど、何か悔しいような気がしないでもない。最果タヒや松田青子を読んだ時の、何かわからないけどなんとなくはわかる感じ、と何が違うのだろう。
 最近は少し文字から離れ気味だったこともあるので、もう少し自分の中に言葉と言葉運用スキルと人生を蓄えてから川上未映子については語ろうと思います。

 

川上未映子『先端で、さすわさされるわ そらええわ』読了。

 

先端で、さすわさされるわそらええわ

先端で、さすわさされるわそらええわ