空色徒然草

by いおいお

うぐひすの歌

 窓の外で鶯が鳴いたので、久しぶりに書棚から歳時記を取り出してぱらぱらと眺めてみる。俳句の世界では鶯のことを「初音(はつね)」ともいうらしい。初耳であった。

おのづから聞ゆるものに初音かな/長谷川櫂

  鶯にせよ、桜にせよ、春はとにかく詩欲をかき立てるオブジェクトに満ちている。春が来ると、詩を読みたくなる、詠みたくなる。好きな人ができるとラブソングを歌いたくなるのと、感情のベクトルは似ているのかもしれない。もちろん夏にも秋にも詩の題材はたくさんあるけれど、春ほど詩への慕情が増す季節はない。不思議なものである。「囀(さへづり)」という春の季語があるけれど、春になると囀りたくなるのは鳥だけに限った話ではないのかもしれない。
 春、そして詩といえば西行である。

白川の春の梢の鶯は花の言葉を聞く心地す/西行(「山家集 上」)

 「西行である」なんて断言してしまったけれど、何か論理的根拠があるわけでもなく、ただ個人的に西行の歌が好きだというだけである。春になると毎年、西行が読みたくなる。二年前だか三年前に書店で偶然見つけて衝動買いした岩波文庫の「西行全歌集」が思いの外素晴らしく、一時期すっかりはまってしまった。三十一音(ほぼ)ちょうどという制約の中でこれほどの世界が創り出せるのかと尊敬した。歌の意味がすべて理解できるというわけではないけれど、口に出して読んでいるだけでもある種の快感を得ることができるものである。シェイクスピアの原本なんかを音読していると湧き上がってくるあの感覚と似ている。
 詩を楽しむ行為というのは、たとえば鶯の声そのものを聞いて楽しむのとは少し趣が違う。詩に描かれた情景、音、シチュエーションを「想像」して楽しむのである。上に挙げた歌を例に取るなら、「白川の梢で鳴く鶯」を僕自身は直接聞いたわけではないし、白川に実際に赴いてすらいない。「白川の梢」から聞こえてきた「鶯の声」が「まるで花の言葉を聞いているかのようだ」と感じたその瞬間の作者の気持ちを「想像」して楽しんでいるわけである。西行が生きていた当時の白川がどんな風景だったかも知らないけれど、現在の白川の景色を背景に想像するだけでも十分趣は得られる。
 必ずしも自然の情景を詠み込んだものばかりではない現代作家の口語不定詩なんかでも、基本的に楽しみ方は変わらない。詩の中に次々と現れるオブジェクトを順に頭の中でイメージしていくと、見たことのない世界が突然眼前に現れる、嗅いだことのない匂いが漂ってくる、聞いたことのない音が聞こえてくる、それが詩を読む快感なのである。

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