あじさいの手紙

 国道沿いを自転車で走っていると、道のわきに時折植えてある紫陽花の葉が、来るべき季節への期待に、てかてかしているのが見える。紫陽花の葉がてかてかしているのを見ると、無性にわくわくする。冬の終りに、桜の新芽が膨らんでいるのを見るときの、あのわくわくに近い。紫陽花は、一緒に生えている他の植物に比べて葉の面積が大きいから、余計に目立って、てかてかしている。あの光沢は、てかてかとしか言いようがない。てかてかにもそれなりに語源とかあるだろうけれど、そんなことはどうでもいいってくらい、紫陽花の葉はてかてかしている。てかてかしていて、わくわくする。
 待っている気分というのは、嫌いじゃない。待つことが好きというより、待つことに苦痛をあまり感じないのだ。(もちろん、急ぎの用でなければ、であるが。)待つということは、わくわくするということでもある。
 送ると言って送られてこない手紙を、かれこれ3週間近く待っている。送ると言ったのだからきっと送られてくる、と信じて待っているのである。ここで「まだなの?」などとLINEで催促したりしてはいけない。物語の妙味が一気に台無しである。「本当に、ずっとお待ちしておりましたのよ。あなたからのお手紙が今日来るか、明日来るかと気が気ではありませんでした。あなたの顔を思い浮かべながら、昼も夜も上の空でしたわ。でもわたし、あなたからきっとお手紙が来ると信じておりましたのよ。」と近代西洋文学のヒロインなら返信に書くだろう。それが書きたいから、ぐっとこらえて待っている。紫陽花ならいつか咲くとわかっているけれど、あの人からの手紙は本当に来るかどうかすらわからない、でもそれが愉しい。
 綺麗な紫陽花が見たいのではない。綺麗な紫陽花がきっとここに咲くだろう、というほのかな期待が胸をじんわり締め付けるのだ。あの人の手紙は僕の紫陽花。咲くのをじっと待っているだけでも愉しいけれど、咲いたらもっと嬉しい。

f:id:listenandplay:20170517225544j:plain