空色徒然草

by いおいお

アートと金魚

 二条城のアートアクアリウム会場にて、形大きさ様々な水槽に入れられ、色とりどりの光に照らされながら無表情で泳ぎ回っている無数の金魚を見ながら、もし、観賞用に品種改良された何万という人間をガラス箱に閉じ込め、光を当てたりBGMを流したりして演出したら、それは美しいだろうか、という思い付きがふと脳裏をよぎった。
 もちろん、それ以上深く考えるのは何か恐ろしい気がしたので思い付きにとどめておいたけれど、それが単なる思い付きにとどまらず、人員と資金とを少なからず費やして実現されてしまったのが、昨日見た光景だった。
 たしかに、水槽の形、大きさ、配置、ガラスの角度、厚さ、水流、光の色とパターン、雅楽と西洋のミニマルミュージックとどこか知らない国の舞踊音楽のようなものを織り交ぜたBGMなど、細部に様々な趣向が施されていて、それはそれで見応えがあったことには違いない。けれど、その水槽の中でせわしなく動き続けているのが生きた魚であるということが、また、その魚たちが、報酬をもらって芸をしているのではなくただそこで生きているだけなのだということが、何か心に引っかかって、嬉しくなれなかった。
 舞台の上で舞を舞っている(人間の)舞台俳優を観ても、そういう変な感情は覚えなかった。彼らはプロとして自分のパフォーマンスに責任を持って演じている、という信頼感がこちらにはあるのだ。ただ、彼の踊っている舞台の足元や背後に設置された大きな水槽に泳いでいる金魚たちは、自ら何かの役を演じているわけではなく、ただそこにいることを余儀なくされているだけだった。もちろん、水質管理や生体管理は綿密にされているそうで、そうやって水槽に入れておくことが魚たちにとって虐待であるとか、そういう文句が言いたいわけではない。魚を、あたかも人間のアートの一部であるかのように扱っているのが解せないのである。
 しかしこの何とも言えない違和感を払拭するためには、アートとは何かという問題からもう一度始めなければならないのかもしれない。あるいは、アートと動物の関係という問題。飼い犬に餌を与えて芸をさせるのとどう違うのだろうか。サーカスのライオンは? 油絵に描かれた鹿は? ハチドリの写真は? 古池の蛙は? 我輩猫は?

f:id:listenandplay:20171212153751j:plain