嘘も大概
僕はどちらかというと性善説支持者なので、「近頃ネットで出回っている誰々が書いた記事は嘘八百だ」などという警告記事の類いを見ると、本当にその誰々は「嘘」を書いたのだろうか、という気持ちになる。嘘を書いて人を欺くつもりはなかった、ただ、自分が持っていた情報が間違っている、あるいは不十分であると知らずにその情報をネットに流してしまい、運良く(悪く?)人の目に触れて拡散されてしまった、というのが実際のところほとんどなのではないのだろうか、と僕には思えるのだ。もちろん、自分の発言に責任を持つのは人として当然だと思うので、自分が流した情報が間違っていたと判明したなら、早めにそれを認める意の表明をするのが適切な処置であろう。既に拡散された情報を電化製品のリコールのように回収するというのはほぼ不可能なことではあるけれど、訂正情報を上書きすることで情報提供者としての責任を少しでも果たすことはできる。元記事の間違いを指摘する側にしても、その記事を書いた誰々本人に「それは間違っている」と柔和な態度をもって指摘するなら、そこには親切と善意さえうかがえるのだけれど、「あの誰々は嘘を言いふらす極悪人だ」などと書き込んで読者の感情を煽るのは、単なる中傷行為であるばかりか、新たな「嘘」さえ生み出しかねない。
逆に、本当に嘘のつもりで嘘を言っているのだとしたら、ちゃんと責任の取れる範囲の嘘でなければならない。つまり、「ばれない」嘘、もしくは「ばれても(自分含め)誰も困らない」嘘に限るということである。嘘をつくことが社会的地位や信用に繋がるというディストピア的シチュエーションならともかく、その記事に書かれていることが嘘だと判明し、しかもその嘘が多くの読者にとって不愉快な結果を引き起こす類いのものであった場合、その記事の筆者は間違いなく嫌われる。他人を煽りたいもしくは陥れたい一心で不十分な嘘をついて、その方面の知識人にすぐに暴かれ、結果自分が惨めな状況に陥るというのは、はっきり言って愚でしかない。ばれても自分が困らないような嘘をつけ、とはそういうことである。他人を困らせるような嘘はどだい悪である。