空色徒然草

ジャズ・ピアニスト大同巌のブログ

東京行きたいな。

 標準語(というか東京語?)において、「東京行きたいな」という文は文法的に正しいのだろうか。

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 文章を書く時は基本、標準語をベースに書いているのだけれど、実際のところ自分は標準語のネイティブスピーカーではないから、ちょっと逸脱しているかもしれない表現(日常口語的表現)という領域に踏み込むのがなかなか難しい(口語標準語で、てにをはの類ってどこまで省略できるの?)。件の文なら「東京に行きた い」とか「東京に行きたいな」とすれば、文法的な心配はまったく無く、言いたいことも言えるのだけれど、問題はリズムである。「東京行きたいな」というフレーズが持つ「タンタン/タカタン/タ」という四拍/四拍/一打(または二拍/二拍/一打)のリズムは「東京に行きたい」とか「東京に行きたいな」に比べてはるかに強力で、安定していて、ちょっとやそっとの理由で他の表現に置き換えられるものではない。是非ともこの音数で表現したい。もちろん「東京に行きたい」(五連符/四連符)とか「東京に行きたいな」(五連符/四連符/一打)がきちんと活きてくる文脈もあるとは思うし、これらの表現は今後一切使いたくない、と言いたいのではないのだけれど。
 Facebook等でこういう雑文(長短問わず)を投稿するようになってかれこれ四年、 言葉をリズムに乗せるということ、言葉の持つリズムに耳を澄ますということには並々ならぬ神経を注いできたという経緯があって(漱石の影響をもろに受けていた頃からおそらくそうだったし、二年くらい前に山頭火の俳句に出会ってからさらにその傾向は意識の表面に上るようになった)、意味的には大して重要でないような部分でも、リズムが自分の要求に沿っているかどうかがどうしても気になってしまう。短い記事を一つ書くのにも、何回も何回も打ってはDelete、打ってはDeleteを繰り返すのはもはや日常茶飯事、なんなら、リズムさえ良ければ意味が多少犠牲になっても構わないと思っている節さえある(もちろん事実を曲げない範囲で)。
 リズムを優先するあまり意味が飛躍するのは、必ずしも悪いことではない。音楽理論にたとえるならば、IIIの和音からVの和音へ移行するのに時間的余白が一拍しかないからやむを得ずIIやIVといったサブドミナント和音(緩衝材)をすっ飛ばす、といったことと相似して、要するに前後の文脈さえしっかりしていればその間隙は容易に推測補完され、正当化されるのだ。押韻を執拗に意識して書かれた欧米や中国の詩、あるいは最近で言えばラップの詞なんかを例に取ればわかるように、意味の飛躍がかえってある種の詩趣を作品に与えるということもある。筆者はどうも詩への憧れ尽きぬ男だから、この辺の言い訳は看過していただきたい。
(東京に行きたいだけなのに、ずいぶんマニアックな話になってしまった。しかも今回、これだけ言っておきながら全体的にリズムが悪い。四年も書いていてこれか。)
  あ、で、リズムも大事なのだけれど、文法の正確さもやはり大切にしたいので(これもまあ自分さえ納得すれば良い話で、国語の教科書に一から十まで倣うつもりはないのだけれど)、「東京行きたいな」と呟いた瞬間、これって(リズム的には良いとしても)文法的に正しいの?と立ちすくんでしまったのである。それが本稿の始まり。
 関西アクセントで読めばまったく問題ないんだけどなぁ。本稿、終わり。