空色徒然草

by いおいお

詩人を語る人たち

 川端康成の小説をたいそう気に入っている友人がいて、彼曰く康成の書く一文一文は自分にとってあまりにも重い(もしくは鋭い、だったかもしれない)から、一度にたくさんは読めないのだ、と。同じことが僕にとっての最果さいはてタヒにも言える。『ユリイカ』の6月号「最果タヒによる最果タヒ」を買ったのはもうだいぶ前だけれど、いまだに全部読みきれない。最果タヒ自身の手による日本語ばかりというわけではないのに。
 むしろ特集内容のほとんどは、最果タヒを何らかの形で知る最果タヒ以外の人間による文章なのだ。漫画家。映画監督。詩人。シンガーソングライター。画家。翻訳家。声優。業種も年齢性別もバラバラである。それでも、そのすべての書き手が「最果タヒ」を想いながら、「最果タヒ」を見つめながら、あるいは「最果タヒ」を口ずさみながら一言一句をしたためているものだから、どうしたって最果タヒ独特の色合いがにじむし、最果タヒ固有の波形が混ざる。結局のところ、純粋な最果タヒを読んでいるのと大差ないエネルギーを要求されるのだ。
 とはいえ、ゆっくりながらでも読み進めていると面白いもので、こんなにも多種多様のバックグラウンドを持つ書き手たちが集まっているのだから、同じ最果タヒを論じても出てくる言葉が全然違う。というか、すべての人が「同じ」最果タヒを見ているわけではないので、当然出てくる言葉も全然違う、というべきかもしれない。「淡々と読んでも成立するし、大きな声で叫ぶように読んでも成立するというのは最果さん特有のもの」と上坂すみれ(声優)。「彼女は、寺山修司でもない、谷川俊太郎でもない、思いもよらない方向へ飛んでいきそうな気がする」と金原瑞人(翻訳家)。「最果さんの作品から受けるものは(中略)『鏡』そのものである」と大槻香奈(画家)。「タヒちゃんは、名前の後に"w"をつけられてはいけない人だ」と大森靖子(シンガーソングライター)。本当は職業詩人の寄稿が割合としては多いのだけれど、職業詩人ではない人たちが揃いも揃って詩人みたいになってしまっているのがこの特集の面白いところである。
 自分も最果タヒのファンを自認していたけれど、こういうものを読むといかに自分の読み方が偏っていて独善的であったかと少しショックを受ける。でも嫌な気持ちはしない。相手は詩なのだから。ドミソという和音はドミソという和音でしかなく、それにどのような意味付けをし、どのような感情を読み取るかは聴き手に委ねられている。それと同じく、詩の楽しみは全く以て個人的なもので、だから、いろんな人の最果タヒ観を垣間見ることは詩そのものの副産物みたいなものとして気楽に楽しめるのだ。
 ここまで喋っておきながらまだ『ユリイカ』も半分くらいしか読んでいないから、読み終えたらたぶん倍くらいのことが喋れるのだろう。ゆっくり読んでいくことにしよう。あ、でも、最果タヒの新刊『愛の縫い目はここ』も読みたいな、これも読むのに時間かかりそうだし、時間の使い方って難しい。

 

愛の縫い目はここ

愛の縫い目はここ